香炉屋日記290502
爽やかだが霞んだ晴天。
連休の午前はかえって閑散としている。
人出は午後だ。
昼過ぎに、昨日の婦人が来た。
火が付いた炭団を摘まむ、火箸が欲しいとのこと。
香道で使う、火道具4点セットを見せた。
香火箸、灰押さえ、銀葉、銀葉はさみだ。
これなら、香木を焦がさず、炙るので、澄んだ香りが楽しめるというと、喜んだ。
使い方も教えた。
細長い箱を取り出し、貰って欲しいと言った。
箱の中身は、煙管(きせる)だ。
御亭主が昔の専売公社に勤めて退職祝いにもらい、使わないままだそうだ。
私も煙草は苦手だ。
しかし、香炉も煙管も、植物を加熱して、香りや煙にして楽しむ道具としては同じだ。
香炉には無い利点が見つかるかもしれないと思い、有難く頂戴した。
香木にもパンの耳のような部分がある。
聞香に用いるには香りが弱く、焼香なら充分という感じだ。
香木を分別する過程で出てくる。
焼香より良い用途があるはずと探している。
煙管は、さて、どうだろうか。
煙管は、金属製の吸い口と火口、途中の竹の3つの部品から出来ていて、引き抜けるようになっている。
先ず火口を抜き、次に吸い口を抜いた。
吸い口に隠れた竹の端に、鋭い線で「依田」と彫られていた。
あの婦人のご亭主の名は依田だったのかと思う。
ふと、小学校の同級生に依田君というのが居たことを思い出した。
笑顔も声もよみがえった。
依田という人は、数百人は居るだろうし、過去をさかのぼれば数千人、未来には無限に居る。
その中の特定の一人である同級生が依田なのか、依田という名の人のすべてが同じ一つの依田なのか。
分かりにくいかも知れないが、私にとってのこの世のすべては、私が知る言葉で、それを昔の人は「言霊(ことだま)」と言ったのだと思っている。
私にとって、依田という言霊が依田君なのだ。
この煙管はあの依田君からの贈り物なのだ。
この煙管は、私にとって大切な意味を持つのだろう。
心の底からそう思えて、うれしかった。
昔から幸運はそんな風にやってきたからだ。
香木を刻んで、刻み煙草のようにした。
火口に入れて軽く押さえた。
ライターの火を近づけ、軽く息を吸うと、炎が火口に吸い寄せられて、香木を焼いた。
肺に入れないように、口の中でふかした。
火口からの煙と芳香が部屋を満たした。
後味は爽やかで、玉露のような甘い感じがする。
沈香は、感覚や感情の心を鎮静する働きがある。
自分へのこだわりが消えて、ドローンのように天井から自分や周囲を見降ろしているような気分になる。
依田君の事を考える。
自分と依田君の区別が無い。自分即ち依田君になる。
依田君の考えは、すなわち自分の考えになる。
喜怒哀楽のない世界だ。記憶や願望の言葉だけの世界だ。
依田君の記憶や願望は、すなわち自分の記憶や願望だ。話し合うというより、同じ本を一緒に読んでいる感じになる。
あの世に深入りし過ぎた感じがしたので、止めることにした。
窓を開けて換気、深呼吸をした。
この世に戻ろう。
夕食はカツオの刺身だ。
久しぶりに一杯やろう。
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