香炉屋日記290426 夜間飛行
一日小雨。花冷え。
湿度が高いと、鼻の粘膜が敏感になる。
香には最適なのだが、客が途絶えて夕暮れを迎えた。
あと少し待って閉店と思っていると、男の人が来た。
入り口に傘を置いて席に着いた。
注文は、「心の疲れが取れるのを一服」。
黒い服。ずいぶん疲れているようだ。
香炉を整えて、銀の沈香を載せて、置いた。
椅子の背に深く寄り掛かりながら、むさぼるように香りを聞いていた。
しばらくして香炉を置いて、手帳に何かを書き始めた。
私は通りの向こうの靄がかかった景色を眺めていた。
闇が深くなって、車のライトが、流れ星のように尾を引いていく。
客は腕時計を確認して席を起ち、傘を持って出て行った。
歩道を見降ろすと、地下鉄の駅に向かって行く後ろ姿が見えた。
さあ閉店と思い直し、テーブルの香炉を片付けていると、黒い小さな手帳が床に落ちていた。
営業日誌らしい。
紐が挟まれているページを開く。
今日の客は、ホームを通しての依頼だったので、どんな人か知らなかった。
ホームの裏口の小部屋で待たされる。
若い男が先に待っていた。きっと孫なのかもしれない。
若い男は何となくうれしそうだった。
チャップリンのような、古典的な服装で、いまどきの若者の流行なのだろう。
ホームの職員が最後の化粧と服装を整えるのを待っている。
頼んでおいた霊柩車は外で待機している。
今日はずいぶん長くかかっているなと思いながら待っていると、エレベーターの地下の階を示す明かりが付いた。だんだんこちらへ上がってくる。
迎えるべく立ち上がって待つ。ドアが開く。若い女性が一人乗っていた。先ほどの若い男に手と目で相図をすると、腕を組んで、うれしそうに外へ出て行った。
女性の服装も、チャップリンの登場人物のようだった。
私に目配せをしたような気がして、思わずお辞儀を返した。
エレベーターの扉が閉じて、階下に降りていった。
再び上昇を始め、ドアが開いて、担当の介護士と施設長に付き添われて、寝台車が出てきた。
霊柩車の運転手と協力して、霊柩車に搭乗してもらう。
いよいよ夜間飛行の出発だ。
明日から忙しくなる。
身寄りのない人の依頼で、葬儀を取り仕切る、個人経営の葬儀屋さんのようだ。
今年始めからの葬儀の日誌がびっしり書かれている。
これ以上読んでも連絡先は出てきそうに無いので、閉じた。
取りに来るのを待つしかない。
忘れ物保管箱に入れた。
今日はとんだ残り香だった。
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